ジェンダーギャップと、ユーザー中心と、エシカルデザインと

Mayu Nakamura
10 min readMar 8, 2020
Photo by Allie Smith on Unsplash

今、Caroline Criado Perez著のInvisible Womenという本を読んでいます。まだ読み終わっていないにも関わらず面白いので色んな人に勧めてしまっているのですが、この本を読みながら、また日本の状況を見て思った事があるので、女性として、デザイナーとして、自分の考えの整理も兼ねて、書いて見ることにしました。

大まかに分けると2つ。それは

男女平等って言葉、雑すぎない?

デザインが貢献できる事たくさんあるのでは?

ということ。

ニーズに対応できていないデザインが不平等を生む

「男女」という言葉を聞いてまず思い浮かべるのはセクシャリティの意味の方が強いのではないかと思います。セクシャリティの定義は

ある個人(individual)が女性、男性、あるいはそのどちらにも属さない性(インターセックス)であるかを規定する生物学的な特徴の総称です。(UN Womenのサイトより)

生物学的な話なので「違いがある」=区別になります。女性に生理があり、妊娠して、子供を産むという点で男性と違う事は否定できません。なので、「男女平等」という言葉に対して一部の人は、「違いがあるんだから、同じように扱えなんて無理でしょ」と考えてしまうと思います。

でもここでちょっと考えてみたい。この「平等」は正確には「違いがあっても同じように尊敬されて、同じような機会が与えられるべき」のはず。ところがそもそも現在の社会システムや制度などをデザインしてきたのはほぼ男性で、女性という身体を持って生まれてきた人間の都合はあまり考慮されていません。違いがあるのにデフォルト(男性)に合わせる事が前提となっている。もちろん全てが悪意を持ってなされているとは思いませんが、デザインする側(男性)が単一視点しか持てていないので、使う側(女性)のニーズに気づけない。または気づいていてもバックログの下の方にあって、優先順位が上がってこなかったりするのです。人類の半分のニーズしか汲み取れていない。う〜ん、ロッツオブオポチュニティフォーユーザー中心設計。

Invisible Womenにも様々な例が出ているのですが、この「デザインの根拠となるデータ・知識の中に女性が存在していない」という状態は、トイレや授乳室などの日々使うもののデザインから、税制度のような社会システムまで、この世界のあらゆる所に不平等さを作り出しています。

カタカナで表現されるジェンダー

次に、辞書で引くと「性、性別、ジェンダー」と出てきてしまう英単語gender。恐らく一言で訳せないからカタカナのまま入ってきちゃったやつ。

ジェンダーとは、男性・女性であることに基づき定められた社会的属性や機会、女性と男性、女児と男児の間における関係性、さらに女性間、男性間における相互関係を意味します。こういった社会的属性や機会、関係性は社会的に構築され、社会化される過程(socialization process)において学習されるものです。これらは時代や背景に特有であり、変化しうるものです。(UN Womenのサイトより)

変化しうるもの。

日本では男性は家族を養う役、女性は家庭で世話をする役、というジェンダー規範が根強く、社会もそれを前提に回っています。日本の男性の働き方(長時間労働、休みが取れないなど)は誰かが家にいて子供の世話をしないと成り立ちませんし、「女子力」とか「母性」とか誰かの世話をするのは女性の役割、という感覚は根強いです。「男性はこうあるべき」「女性はこうあるべき」という型があり、その役割をこなすことに最大限の努力を求められます。

日本で生まれ育っていると、「ジェンダー規範は教育されて擦り込まれるもの」という事が認識しづらいように思います。小さい頃からそうやって育てられたから身についただけの習性が、性別の特徴で、変えられないものだと思われています。でもその多くは昔の人がその時の都合で作ったお約束です。それは一度日本を出て外から見てみるとわかるのですが、例えばジェンダー平等の感覚がかなり根付いているスウェーデンなども、初めからそうだった訳ではなく、長い歴史の中で制度を変えながら、少しずつ意識を変え今の社会を作っています。

制度が変わるのではなく、人が縛られている状態

「男女平等」に関する議論がなんか噛み合わないのは、上の2つの視点がごちゃっと混ざって話されるからじゃないかなぁと思っています。

例えば、先日ニュースになった聖マリアンナ医科大学の件などは「医療の現場にとって妊娠・出産で職場を離れる可能性のある女性を採用するのはリスク」という考えが起点です。本当はそもそも医師というキャリアパスが女性にアクセスしやすくなっていない事が問題で、ならば職場環境を改善するにはどうしたらいいのか?という方向に行きたいはず。(これは他国の状況などを見ても、可能なことだと思うのですが。)ところが何故か「女性は医師という職業には向いていない」というジェンダー規範が強まり、まだ人生のプランさえ決めていない女子学生の機会が奪われる事が正当化されてしまいます。

もちろん逆に男性にも不利になっている点があると思います。少し前に小泉大臣の育児休暇の件が話題になりました。これも女性というセクシャリティの差に対応していない職場環境と「子供はやはり母親がいい」というバイアスが組み合わさった結果、「男性は仕事して家族を養う」というジェンダー規範に縛られて、父親たちは自分の子供との絆を作る機会を奪われてしまっています。そもそも男性だろうが女性だろうが、育児休暇で職場を離れるのが「迷惑だ」とされてしまう職場の制度や文化を変えるべきだと思うのですが。

女性に決定的に不利な点

ということで、ヨーロッパのパパたちの様子と比べても、私は日本の男性はもっとジェンダー規範に対して怒っていいと思うのだけれど。とはいえ、それとは別にやはり女性にとって決定的に不利な点があると思います。

  • 女性のニーズが十分考慮されずにデザインされた社会では、性犯罪の被害(痴漢なども含めて)に遭いやすく、健康・安全管理の面でもリスクが高く、女性の行動・選択肢が制限される
  • 昔ながらのジェンダーバイアスに基づいた社会制度では、女性が1人で経済的に自立するのが難しい、できない(その結果男性に所有される、選別されるような立場になってしまう)
  • 状況を変えたくても決定権を持つ立場にいない

暴力や恐喝によって女性の権利が制限されてはならない話なんて当たり前すぎるので、割愛…。しますが、Invisible Womenに載っていたモビリティデザインと女性の行動についてのデータはすごく興味深かったです。ちょっとした社会環境のデザインの変化で、女性はもっと安全に暮らせるのだと思う。

2点目、妊娠・出産を理由にキャリアパスが閉ざされてしまいがちな女性は、きちんと自分と家族を養っていくだけの経済力を付けるのが大変です。またバイアスによって機会が奪われてしまったり、働いていても賃金が男性より少なかったりします。資本主義の世の中では残念ながら経済力が無ければ自分で自分の人生を選ぶのも難しい。先日ハフポストの記事でひろゆき氏が「女性は顔がある程度かわいければ、そこそこまともな結婚ができて一生食いっぱぐれない」と言っていましたが、これは逆に言うと「顔が良いと思われなくて、まともな結婚ができなかったら食っていけない」?それ、生存戦略の選択肢、狭すぎない?しかも相手に依存するからコントロールするの難しくない?もちろんそういう道を選ぶ人の人生は尊重されるべきですが、その形を選ばなかった人もきちんと生きていける世の中の方が良くないですか?

そして極付は、「社会システム」のデザインを変更しようとしても、決定権を持つ立場に女性がいないので、なかなか変化を起こすこともできません。日本のジェンダーギャップ指数が121位なのは、このあたりが原因。(詳しい解説はこの記事がわかりやすいな〜と思いました。)

ユーザー中心設計さん、出番ですよ

さてさて、ここでキリッとデザイナーの帽子をかぶりたいと思います。

ユーザー中心など勉強してきているとよく”Designers are not users”という言葉を聞くと思います。セクシャリティの差を考慮したデザインができていない問題は、いわゆる「ユーザーのことわかったつもり」問題と性質が同じです。デザインしている側ーーこの場合、特に社会制度や経済活動を担っている政治家、行政、経営者、サービス・プロダクト提供者ーーが、自分の知識や経験を元に作ってしまっていて、しかも検証もしていないので、 使いにくい事に気付けていません。(ちなみに日本で生まれ日本から一生出ない日本人デフォルトの制度が多いので、国境をまたいで生きている人にもとても使いにくい。)

なので、ジェンダーギャップもユーザー中心のアプローチを使っていけば解決できる部分が多々あるという事だと思います。しかもデジタルプロダクト分野だけじゃなくて、社会制度のデザインなど、あらゆる面で。Design thinkerのみんな、出番だよ。

当たり前を疑おう

ですが、1つ気をつけるべき点が。それは、ジェンダーバイアスというのが現在の社会や人の中に「当たり前」のものとして溶け込んでいるということです。この当たり前そのものに疑問が持てないと、ユーザー中心でデザインしても「女性が好きなのでやっぱりピンクで」とか「技術的な事を女性でもわかるようにしましょう」のような、バイアスに乗っかった、下手をするとバイアスを強めるデザインになってしまいます。ユーザー中心でやろうとしてペルソナを設定したものの、ペルソナ自体がステレオタイプの塊なケースもよくありますし、バイアスの中で生きている本人が欲しいと言ったものをそのまま鵜呑みにするのは危険です。(そもそもユーザーの言うことは鵜呑みにしちゃダメよ。

もちろんユーザーの好みに合わせたデザインをしたり、今あるペインを解決することには大きな意味があるのですが、目の前のユーザーの利益だけ考えてしまうと、別の観点で思いがけない害をもたらしてしまうかも知れないということです。

ユーザー中心からユーザー&社会中心へ

実は上に書いた事は、ジェンダー問題からさらに進んで、これからもっと注目されていくであろうエシカルデザインを考えるときに大切な要素です。デザイン業界でも、ただ単にユーザー個人のニーズをやみくもに満たすだけはなく、社会への影響なども考慮するべきだ、という声が大きくなってきています。デザイナーも、1人のユーザーのニーズだけではなく、長期的な影響や、コミュニティ、社会への影響を視野にいれていく事が求められています。そのためには自分たちのデザインの前提、思い込みを常に疑う力が必要。そして思い込みに気づくための1つの手段は多様性のあるチームを作ることなのですが…あれ、にわとりたまごになっちゃった。

ジェンダーギャップ121位、日本の状況はまだまだこんな感じです。何だか遠い道だなぁ〜とため息が出てしまいますが、でも、デザイナーとして、できることもあるはず。

フェミニズムという言葉は敬遠されがちだそうですが、ジェンダー平等の本質的なところは男女の否定のし合いではありません。このポストでは触れませんでしたが、ジェンダーではLGBTQなどの視点もあります。いずれにしても根幹にあるのは、違うバックグラウンドや身体、心を持った人たちいかに優しい世界を作れるか、というデザイナーにとっては大変腕が鳴るようなお話なのです。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。ちょっと面白そうと思った方、引き続きお話していきましょう!

Happy International Women’s Day!

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Mayu Nakamura

Digital product design lead @ustwo. Believes in UCD. Mindfulness padawan. Music, SciFi, Crime fiction addict.